センスとsense

2018.1/11

脳の勉強を始めてから十数年、最近ふと気が付いたことがある。

「あいつはラグビーのセンスがある…..。」

何気なく使うカタカナ言葉であるが、それを定義するとなると、そう容易ではない。
“センス”はもちろん、英語の“sense”の発音をそのままカタカナで表記したものであり、その訳ではない。
日本語は、あらゆる言語を吸収することができる柔軟性を持つ。
外国人からすれば、時にこの柔軟性が日本語修得の困難さにつながるのかも知れない。
外来語のカタカナ表記は、曖昧ながらも全体を包み込むような意味合いを、その言葉に付与するという利点を持つ。
“センス”とは、あることについて、“優れた能力を持つ”という意味とほぼ同義語として用いられていると考えてよいだろう。
つまり日本語で“センス”という場合には、服の選び方が上手であるなどの他に、運動能力に優れているとか、素晴らしい絵を描くことができるという意味合いも有している。
これらの運動能力や絵画の表現とは、脳の機能で言えば、motor function、つまり遠心性の出力に相当するように思われる。
しかし“センス”の本来の意味を考えてみると、それはまぎれも無く求心性の入力を表現するための言葉である。

日本語と英語における「センスとsense」の意味合いが変化してくるのは日本語の持つ曖昧さから来ているのかも知れない。
我々を人間たらしめているものは脳の存在であることに議論の余地はない。
脳死の状態では、何も感じないし、何も表現できない。
ただ反射的に生命維持に必要な機能を営んでいるばかりである。
しかし神経系の働きは、本来反射的な機能から進化してきた。
ある刺激に対して、ある特定の身体の反応を導けば、より生存の確率を高くすることができるというものである。
それが、脊椎動物が背骨を獲得し、マカロニ状の中空性の神経管を持つに至り、その先端部が次第に膨れあがり、我々の巨大な脳にまで発達・進化するにつれて、脳の役割も変化してきた。
この脳の発達をもたらしたものは何であろうか? 
それは脳の中の内在プログラムによってなされたのではなく、外界を感知するための末梢感覚器からの膨大な入力である。
すぐれた感覚器がなければ脳は発達しないのである。
このことは、日々漫然と過ごしていると脳力が落ちてボケてしまう事実に気が付けば想像に難くない。

“ラグビーのセンス”、これは単に走る速さ、無尽蔵の体力、腕力の強さでは決まらない。
100メートル10秒台の陸上選手が名ラガーになれるとは限らない。
ここぞと言う時の第一歩、あるいはパスのタイミング、ポジションニングが重要となる。
これは状況の把握、まさしくsense 、感覚の勝負なのである。
素晴らしい絵画を見て美しいと感じ、心にしみる音楽を聞いて感動し、一流のプレーを見て自分も真似してみたいという、感性なのである。

そう、senseとは感性なのである。

モーツァルトの交響曲を聞くだけで、IQが瞬間的に跳ね上がるという事実が「ネイチャ−」に報告されている。
脳を進化させるためには、まず上質の入力が必要である。
次ぎに出力のトレーニングである。
モーツァルトを聞きながらランパス、筋トレを行い、酒を飲みながら仲間と語り合えばよい。
そうすればおのずと出力の質も向上する。

ラグビー部は、脳を進化させるための最適の場所である。


部長 後藤 薫
(平成15年『こまくさ』より転載)

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