ラグビーと研究とセレンディピティー

2017.10/11

ラグビーは、厳しい自己鍛錬の下で磨き上げた強靭な肉体と反射神経を最大限に活用し、緻密な論理的思考による陣取り合戦の計画を15人で試行錯誤する“力ずくの頭脳ゲーム”である。
当然、同様の鍛錬を経た相手方も15人で勝負を挑んでくるので、計30人の身体能力と頭脳が一つのグランドでぶつかり合う。
さらに言えば、この激しいスポーツは、誤審の可能性も認めた上でその判定を全面的にレフリーに委ねることから、31人の判断の合作とも換言できるだろう。
どんなゲームであれ、その流れは他のどのスポーツ以上に自由度あるいは判断の機会が大きいと思われる。
個人練習では、身体能力の向上に努めながらパスやキック等の個々のスキルアップを計り、全体練習では、スクラムやラインアウト等、セットプレーからの攻撃パターンを反復練習しその精度を高めていく。

しかし我々は皆、実力が伯仲する場合の勝敗は楕円球の“その時”のバウンド一つに左右されることを知っている。
人は皆、そこにラグビーの面白さがあるという。
もし完璧な球形ボールを用いるなら、その面白さは半減するだろう。
そう、楕円球を相手にする我々は、ボールと地面との“気まぐれな関係”について、己の判断能力が問われるのである。
それはまさに人生そのものであり、我々ラガーはそれを当然のこととして受け入れている。
しかしふと考えると、極力偶然性を排除するスポーツ界にとって、これは類い希なことも事実である。
偶然性を排除するか、手に入れた占有権を放棄してまでも神様の気まぐれに賭けてみるかは、我々次第である。

一方、私が日夜取り組んでいる研究も実は、ラグビーに類したものだ。
常に目標を掲げ、綿密な実験計画を立て、それを実行する。
最近、私は研究チームの一人一人に、そのテーマが如何に“おもしろい”ものであるかを説いて回る広報係を担当している。
得られるデータから作業仮説を立て、皆でディスカッションしながら、さらに計画を練り、その仮説を検証する。
この研究の意義は何か、生命現象にとってどのようなインパクトを与えることができるか。
まさにセンスが問われるところである。
しかし、研究計画がいかに論理的でかつ、実験技術が正確であっても、必ずしも作業仮説通りの結果がでるとは限らない。
仮説とは、神様の創造産物である人間によって己の僅かばかりの知識とデータを基に、無意識の偏見に左右されながら創作される“あらまほしきこと”の物語に過ぎないことも多い。
一方、実験結果は、いわば神様の決断である。
近年の重要な実験技術の一つである遺伝子ノックアウトマウスの実験はまさに、事の真偽をこの神様に問うのに似たようなところがある。
ビッグチャンスは、仮説通りのデータよりむしろ、仮説では説明不能なデータが得られた時に到来する。
生命科学のおもしろさは、このような“神との対話”にあると感じるこの頃である。

最近、セレンディピティー ”serendipity”という言葉を目にすることが多い。
セレンディピティーとは、「セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)」という童話に因んだ造語であり、“意外な出来事と遭遇した時に、もともと探していなかった何かを、その人の聡明さによって発見する能力”を意味する。
ラグビーであれ研究であれ何事も、“意外な出来事”は幸運の女神によりもたらされる。
この女神はがむしゃらに頑張る若者が好きらしい。
ならば、地道にボールを追い、真摯に実験を繰り返そうではないか。
そして、微笑む女神と一緒に飲みたいというのが、素朴な我々の気持ちである。
そこでふと、ボールを追っていた現役時代と研究者としての現在の自分が、同じ思考回路で動いていることに気付かされる。


部長 後藤 薫
(平成22年『こまくさ』より転載)

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