青春の議事録、平成12年・夏
なにかに取り憑かれたように、ひとつのことに取り組んだ、そんな期間への入り口は、本当に不意に現れる。
私にとっては、東医体ラグビー部門実行委員長としての約一年間が、まさにそんな期間であった。
今、振り返っても、あれほど充実していた日々はなかったように思える。
島地勝彦の言うところの“人生における真夏日”だったといえるかもしれない。
平成11年の秋、風采の上がらない学生が、駅前の定食屋で遅い昼食を摂っていた(午後の授業をさぼっていたのだろう)。
追試と金欠に追われる、山形大学医学部3回生。
ラグビー部に入っていた。それが当時の私だった。
ケータイ電話が鳴った。知らない番号である。
とりあえず出てみる。知らない男性の声だった。
「もしもし、山形大学の池谷君?関東ラグビー協会の丸山だ…、来年の夏、君が東医体の実行委員長をやると聞いている、マスタープランはできているかな?」
この電話のやり取りが、一年間に及ぶ東医体主幹のスタートであった。
今もよく印象に残っているのだが(17年前の話である)、この“マスタープラン”という言葉の意味がすぐにはぴんと来なかった。
丸山先生の話を聞いていくと、どうやら東医体に関する企画書のようだ。
当時の私はそのように理解した。
我々が、現役部員の頃は、3回生の秋に、幹部の代替わりがあった。
主将と副主将はすぐ決まった、主務もすんなりと決まった。
「会計係でもやりましょうか」
「池谷にお金を預けるのは危険でしょ、飲み屋のツケに部費が回っちゃうだろう」
これには、反論できなかった。
むしろ、もっとも同感したのは当の本人である。
そして、余った役割が“東医体係”だった。このへんの認識の甘さが、やはり学生である。
この時点では、東医体を主幹するコトの重大さを、全く理解(わ)かっていなかった。
“東医体係”という、おそらくこれも適当に付けられた名称だったのだろうが、大会本部があって、そことのメッセンジャーボーイくらいの認識だった。
ある意味、平和というか、楽観的というか、幸せな考えの持ち主である。
しかし、こういう人間は、えてして鬱になりづらい。
いずれにしろ、関東ラグビー協会の重鎮・丸山浩一先生から電話をいただくまで、私は、昼下がりの定食屋で、ぼんやりとマイルドセブンを吸っていたわけである。
ちなみに、丸山浩一先生は、慈恵医科大学ラグビー部のOBであり、当時、東京都福祉保健局にて、児相センター所長として勤務されていた。
その頃から、なんともいえない“大人物感”とでもいおうか、ただならぬ雰囲気があった。
豪快さと繊細さが同居している。
現在も、ラグビー協会の医務委員長会議でお世話になっているが、先生が出される指示は、常に明確であり、端的であり、現実的である。
平成25年には、西東京市の市長に就任されている。
煙草をもみ消した私は、まず、前主幹校の横浜市立大ラグビー部・西大介さんに電話した。
とても親切な方だった。
彼からアドバイスをいただき、とりあえず“マスタープラン”を作った。
そして、平成11年の年末、丸山先生とお会いするため東京へ向かった。
指定された待ち合わせ場所は、丸山先生の職場がある新宿都庁だった。
守衛さんに案内され、少し気後れしながら、丸山先生のいらっしゃる部屋に入った。
「おう。池谷君か。まず、飯でも食べよう。上の階には、慎太郎がいるぞ。ガハハ…」
その年、東京都知事選で都知事に就任したのは石原慎太郎だった。
連れて行かれたのは京王プラザホテルだった。
どうやら和食屋を予約してくれていたらしい。
元気な女将さんがテキパキと動き、ちょうどいい頃合いでビールが注がれ、次々と料理が出てきた。
丸山先生は、私が作った落書きのような“マスタープラン”に目を通し、まだまだだなという表情をされたが(当然である)、御自身も、ゆっくりとビールを飲み、ゆっくりと言葉を放った。
「まず、札幌へ行きなさい。北海道ラグビー協会と連携を。あと、今日の宿は?よかったら、ここに泊まるか…。酒と飯は足りているか、寿司を追加するか」
この日から、山形大学医学部主管の東医体ラグビー部門が始まった。
そして、一年間、私は、様々な方面と交渉を重ねていった。
試合会場となるグラウンドを押さえる、レフリーの方々を確保する、グラウンドドクターおよび救急搬送先となる病院へ挨拶に回る、出場校の移動手段や宿泊先のために旅行会社を手配する、怪我人が出た場合の保険について話をまとめる…。
いずれの交渉や打ち合わせも、直当たりであったが、失礼な振る舞いだらけだったろう。
今、思い出しても、赤面ものである。
平成12年8月の2週間、私は札幌に滞在した。
大会本部を新札幌駅の前にある「シェラトンサッポロ」に置いたのだが、本校の宿泊費だけでも、軽く100万円を超えていた。
出場大学の何校かは、私が提携していた旅行会社を通して、このホテルに泊まっていた。
私がたまたま決めたホテルであったが、合計で1000万円近くは、東医体ラグビー部門関係で、このホテルに落ちていたはずだ。
ホテルの支配人らしき方や旅行会社の営業の方が、学生の身分の私に大変良くしてくれたのは、もっともである。
それなりに太い客だったのであろう。
そして、第43回・東日本医科学生総合体育大会ラグビー部門は、大きなトラブルなく終了し、山形大学自体も、主幹をしながら、ベスト8に入ることができた。
監督 池谷 龍一