違いの分かる男
見慣れた風景も、視覚的そして皮膚感覚的に絶えず変化する。
風景は、そこに位置する物体のみで構成されるのではなく、それを包む光と空気により変幻自在な姿を現す。
生まれ育った山形の蔵王連峰や対側の朝日連峰も、存在としての情報は脳内にインプットされているが、それはあくまで静的な情報で、絶えず自転と公転を繰り返す地球上においては、巡りゆく季節の中でその様相を刻々と変化させる。
春が来れば桜が咲き、夏には眩いばかりの光が溢れ、秋には紅葉が辺りを彩り、そして冬にはしんと静寂に包まれる。
この一連の変遷は毎年のように繰り返され、我々はその移り変わりを楽しむ。
四季を愛する日本的贅沢である。
毎朝これら連峰に囲まれ風を切りながら自転車で疾走すると、皮膚感覚が妙に研ぎすまされてくる。
見た目にはほとんど変化を示さない風景にも、日毎に移ろう空気の変化を感じることができるようになるのには驚かされる。
そう、365日の間、地軸のずれと公転により太陽からの光は日毎に変化し、この変化はさらに空気にも及ぶ。
我々の感覚は、この1/365の変化を感知することができるのだ。
まさに、“秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる”(古今集 藤原敏行 秋歌巻頭)の世界である。
これをゲーテの言葉を借りて西洋の科学的表現にすると、
『健全な感覚を用いるかぎり、人間自身こそおよそ存在しうる最も偉大で最も精密な科学的測定機器にほかならない。そして近代自然科学の最大の不幸は、いわば実験を人間から切り離し、人工的な機器が示すものの中にしか自然を認めようとはせず、それどころか自然のなしうる事をあらかじめそのように制約したうえで、それを立証しようとしている点にある。感覚は欺かない。判断が欺くのだ。』(ゲーテ「箴言と省察」より)
ひところのコマーシャルで「違いの分かる男」というフレーズが流行ったことがあるが、現在では「違いを楽しむ人」へとバージョンアップしている。これは論語的発想に学んだものである。
子曰知之者不如之者 好之者不如楽之者(知る人は好きな人に及ばない 好きな人は楽しむ人に及ばない)
己自身の感覚器で「違い」を感じ取り、そしてそれを「楽しむ」ことが古来、洋の東西を問わず、一流人の条件とされて来たようである。
おそらく日常のあらゆることに関して僅少な「違い」に気づくことで、思考が成熟し、人生がより豊かになるに違いない。
そのためにはまだまだ、感覚を研ぎすます修行が必要である。
部長 後藤 薫
(平成19年『こまくさ』より転載)