達人に学ぶ
“千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。よくよく吟味有るべきもの也”
これは生涯、剣を求道した宮本武蔵の『五輪書』の一節である。
「鍛」も「錬」も共に金属を打って「きたえ」、刀剣に仕上げることを意味する。
紙やプラスチックと異なり、金属の加工、とりわけ名刀を作るには鍛え抜かれた技が必要となり長い時間を要する。
剣を作るのも、剣術を磨くのも鍛錬が必要となる。
千日は約3年、石の上にも3年、何事もまず3年間継続せよ、と武蔵は言う。
先輩を見習ってパスをしてみる。
タックルをしてみる。
中々うまく行かない。
失敗ばかりである。
しかし、千回も繰り返せばうまくいくことがある。
「できた…」
実は、頭の中に成功例の識別能力さえ備わっていれば、換言すれば良いお手本となるイメージを持っていれば、成功は誰にでも確率論的に訪れる。
脳は、身体の運動制御に関して間違って成功を生み出すのである。
一度成功すると、このイメージは実体験となり、さらに強化される。
後は成功の確率を上げていくだけである。
パスの次はタックル、キック等、ラグビーの基本要素に次々と成功例が訪れる。
千日の稽古を経て、全体の技術が統合されると、自らの運動制御に一つの「型」が形成される。
我々にとって初めての千日は、苦しいスケッチと解剖実習に耐え、ポリクリと試験の合間を縫って繰り広げられるラグビー部の活動の中にあり、これはまさに「鍛」である。
この間、我々が学ぶ「型」とは、仲間と共に汗を流す爽快感、不安に打ち勝つ克己心と勇気、勝利の達成感、そして自尊心の涵養である。
これら全ては、唯我独尊的なものではなく、千日の努力により裏打ちされたものであり、永遠に仲間と共有される「技」となる。
この「技」は、卒業で終了するものではない。
実は、我々はこの千日の稽古を継続し、「技」を磨くことになる。
我々がグランドで培った共通の「技」は、日々の診療や研究教育活動へと姿を変え、各人各様の「美」へと磨き上げられる。
個々の症例・手術を経験し、あるいは一編の論文を仕上げていくという具体的な稽古を万日と繰り返した時、一体何が見えてくるのだろうか。
万日と磨かれた自分の「美」がどのようなものになるか、それは鍛錬を積んだ者にしか分からないことなのだろう。
その答えを見出すには今しばらく、稽古を積むしかなさそうである。
そこでふと、納豆にまつわる話を思い出した。
「納豆を1万回かき混ぜると、全く別の味になる…」
これもまた、自分で試してみるしかないのだろう。
世の中の物事には全て、量が蓄積すると質的な変化が起こるという「量質転化の法則」が当てはまるのかもしれない。
よくよく鍛錬すべし、である。
部長 後藤 薫
(平成21年『こまくさ』より転載)