臨床現場におけるユーモア
医療現場に限らず、一定のメンバーや場所におけるユーモアの感覚は、様々なストレスに対する防衛機制として機能しているといえます。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」チャールズ・チャップリンの言葉です。
日々、いろいろなことが起こります。仕事においても、プライベートにおいても。
そもそも、生きていくこと自体が、やっかい事を背負っていくことですから、しかたがないのでしょうが。そんな中、恐ろしい冗談の連続である現実を苦笑しながらやり過ごすことも少なくありません。苦笑い。
笑いが消えた後に残る苦さを、こころの内で上手く飼い慣らしていくことは、処世術のひとつかもしれません。
サマセット・モームは云っています。「人生をおくる上で最上の心構えは、ユーモアの伴う諦めである」
チャップリンとモームの言葉は、いかにも英国人らしい皮肉めいたものにも聞こえますが、ユーモアの本質と大切さを表しています。
もともと、ユーモアという言葉は、古代医学において、人間の性質や体質を決定するとされていた“体液”を意味する“humor(ラテン語)”に由来しています。
それが、次第に、気質や気分の中でも、滑稽さやおどけの意味で使われるようになり、現在、使われているユーモアという言葉の意味に至っています。
ユーモアの語源は、人間そのものから派生しているともいえます。
つまり、人間そのものとは、矛盾と不条理に満ちた現実の中で、愚かしいふるまいを、生まれてから死ぬまで、たとえ本意でないにしろ、演じざるをえない我々の行動そのものなのでしょう。
どうせなら、この宿命的な我々の不完全さは、さっさと肯定してしまった方がよい、と思う時があります。
私は精神科医ですが、精神医学において、ストレス因子に対処する適応の状態を測る尺度に防衛機制(防衛機能尺度)という概念があります。防衛機制とは、自分の心の中で葛藤が生じた時、最良の平衡を与えるように働く機能のことです。
その中でも、高度な適応水準(成熟した防衛機制)のひとつが、“ユーモア”です。
ここでいうユーモアとは、個人的な不快や停滞がない気持ちの明白な表現であり、そして、感情的な問題から気をそらしたり、置き換えたりをせず、耐えがたい状況に耐えることを可能にしてくれるものであります。
また、その問題や状況に焦点を当て続けるものでもあり、かつ、他者に不愉快な効果をもたらさないものとして、防衛機制としてのユーモアは定義づけられます。
その上、ユーモアは、程よい自己観察をもたらし、現実世界との程よい連携をもたらしてくれる道具でもあります。
また、我々、精神科医が治療を要するような状況とは、いわば防衛制御不能の水準であり、ストレス因子に対する個人の反応を封じ込める防衛的調整の失敗と、それに続く客観的現実との激しい亀裂が起こっている時であるともいえます。
平成23年に亡くなった立川談志さん、説明するまでもなく有名な天才落語家ですが、立川談志さんがおしゃってます。「ユーモアは不幸を忘れさせる」と。
臨床現場にまつわるジョークを3つほど。
くちやかましい妻を持つ不眠症の男性。睡眠薬を飲ませるべきは、夫か妻か…。
「ひどいよ、ここの看護師さん。眠っていた俺を揺さぶり起こしてまで、睡眠薬を飲ませるんだ」
(看護師さんは、主治医が出した指示に従っただけ。主治医の説明不足…)
「睡眠薬を連用するのは良くない。癖になるから」
「大丈夫ですよ。私は、二十年間、毎晩欠かさずに飲み続けていますが、まだちっとも癖になんかなっていません」
(実際、睡眠導入剤は正しい使い方をすれば、寝酒より余程いい。常用と耐性と依存。難しい問題ですが)
ユーモアは、あった方がいい。
監督 池谷 龍一