サバイバー・ギルト(東日本大震災をふりかえって)

2017.7/27

この頃(東日本大震災直後)、医局でテレビを観る機会が増えた。
マスコミは、いわゆる、災害医療のニュースは、大々的に流した。
しかし、いわゆる、精神病院に関するニュースは、一般メディアにおいては、皆無に近かったのではないだろうか。
私は、精神科医である。
山形県内の各病院の精神科は、厚労省の方針を受け、地震から一週間以内に患者さんの転院・受け入れ体制を取っていたし、私自身も、被災者の方が入院してきた時、担当医をさせていただいていた。

いったい、宮城や福島、太平洋岸側の精神病院はどうなっていたのだろうか。
閉鎖病棟などで、長期の入院を余儀なくされている精神疾患の方々は、どんな気持ちで過ごしていたのだろうか。
実際、被災され、命からがら生き残った方の話を聴く機会があった。凄惨な体験であった。
そして、あまりにも悲惨なニュースや映像は規制されていたのだろう。

マスコミは強力なスポットライトだ。
ライトをあてられた以外のもの、つまりは、メディアによって取り上げられた以外の出来事は、逆に、我々の目から見えづらいものになってしまう。
たしかに、そこに在ったはずなのに、まるで、もともと無かったことかのようにされてしまう怖れがある。
そして、過剰な情報は人間から想像力を奪う。

日々、被災地の報道ニュースを観ていて、何もできない自分が情けない、という相談を知人から受けた。私とて、彼女と同じような気持ちは、抱いていたが、彼女の話を、黙って聴いてから、私は、できるだけ、ゆっくりと話をした。

この知人のエピソードを出すまでもなく、精神的な外傷を受けるのは、現場における被災者達と彼らを救護する人々だけではない。
たとえ、テレビの画面越しだとしても、被災地の様子を見たり、そこでの出来事を聞いているだけの人にも、抑うつ感や過覚醒(交感神経の興奮、そわそわ、イライラ、気持ちの昂り、浅い眠りなど)が襲ってくることがある。

そして、程度の差はあれ、罪悪感が忍び寄ってくる。
これは、サバイバー・ギルト(生存者が抱いてしまう罪悪感)といって、非常に注意して扱っていかなければならない概念だ。
精神的な外傷と同様に、これは、誰にでも起こりうる。
命からがら生き残った人にも、その治療にあたった人にも、テレビの前で座っているだけの人にも、私にも、あなたにも、彼にも、彼女にも。

サバイバー・ギルト。
冷静に考えてみれば、理不尽ですらある“(漠然とした)申し訳ありません”という感情。
今回の被災で、全ての人々が、様々なレベルで、精神的に傷つき、その多くの者がサバイバー・ギルトを持った、と予想される。
生存者は、生き残ったことに対して、感謝すると同時に、生き残ったこと、他者より損失が少なかったことに対して、罪悪感を抱いてしまう。

少し話はそれたが、私は、件の知人に、ゆっくりと自分の考えを述べた。

今は、祈るだけでいいだろう。自分を責めないで。
仮に、自分自身を罰したとしても、何の助けにもならないし、すでに起きてしまった被害を元通りにすることはできない。
今の状況における自責の念は、きわめて不合理なものだ。
とにかく、自分自身を罰する必要はない。
ゆっくりでいいから、日常に立ち戻ること。他者を見守ること。
自分の行動を客観的にとらえること。
そして、何よりも、我々が生き残っていることの最大の利点は、生存したこと、そのものであり、今後、たとえささやかなことだとしても“援助”ができる可能性を持っていることだ。

いろいろと思いつくままに書いてしまったが、悲しみは、当然、時間を置いてからもやってくる。
私はその時に、ささやかでもいいから、その時、側にいる人に対して、どんな形で、力になれるかを考え続けていこうと思う。
もちろん、被災者の方々の中には、お前達(直接的な被害を免れることができた我々のことだ)に分かってたまるか、という気持ちを持っている方もいるだろう。

しかし、それでも、私は考え続けていきたい、と思う。
いったい、自分は、何ができるか、を。
あの震災から6年間が経った今こそ。


監督 池谷 龍一

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