コロナ記3 〜インフォデミックについて〜

2021.1/30

新型コロナウイルスに関するおびただしい情報がネットやメディアで流れている。

パンデミックならぬインフォデミック、だ。

しかし、あまりにも過剰な情報は、我々から想像力を、たやすく奪ってしまう。

我々は、入ってきた情報を、いったんは、素直に信じるべきだろうが、ただし(可能であれば何人かで)、その情報が正しいのかどうか、検証を怠ってはいけない。

マスコミやSNSは、いわば、強力なスポットライト。

そのとき、ライトをあてられた以外のもの、つまりは、SNSを含むメディアによって取り上げられた以外の出来事は、逆に、我々の目から見えづらいものになってしまう。

いわゆる、メディアおよび情報のリテラシーが必要になってくる。

また、誰でも、“見方、考え方の癖”がある。
これを、精神医学・心理学では、“認知”という。

教科書的に、“認知”を定義すると、

【視覚や聴覚などによって、外部から得られた情報をもとにして、周囲の物事や自分の状態を正しく把握し、適切に行動するための、脳の高度な機能。記憶・思考・判断・理解・計算・学習・言語といった知的機能の総称】

である(小難しいねェ…)。

一言で云えば、正しいインプットと正しいアウトプット。

入ってきた情報を、頭の中で理解・判断し、行動に移す。

しかし、
コロナに関しては…、

情報が入ってくる時点で、「この感染症はやばい」と深刻に受け止めざるをえないものと、「そのうちインフルエンザや感冒と同じような扱いになる」と楽観的ともいえるようなものに分かれており、感染症の専門家ですら、意見が別れている、対立している現状。(R3.1.24の時点では、前者が優位になっているかな。2回目の緊急事態宣言が出た直後ですし。)

この背景には、人間の認知機能には、最初の印象が決まると、そのあとは、それを裏付けてくれる情報にしか注意が向かなくなる傾向がある。

これは、「確証バイアス」と呼ばれる心の動きである。

いったん、根付いた先入観や思い込みは、なかなか修正が効かない。

そして、これが、集団的に起これば(つまりは、群集心理において、これが起これば)、誤って解釈された情報が、その集団を危うい方向に導く恐れもある。

ドラッグストアからトイレットペーパーが無くなる、というニュースがあった(あれは、デマから生じた現象だったらしいが)。
トイレットペーパー”品薄はデマ”も不安に歯止めかからず(2020年3月2日 NHK NEWS WEB)

また、現在、誰でも、SNSで情報を発信できる時代。

個人の体験・情報がクローズアップされてしまい、それが拡大解釈され、恐ろしいことには、それが間違った内容のままで、ただの錯覚のままで、一般化されてしまうことがある。

情報、信ずべし。情報、信ずべからず。

信じよ、されど、検証を怠らず。


我々は、幸い、ひとりではない。

クラスター病院を看てきたメンバーもいる。

PCRを受けて、とてつもない緊張感と恐怖を強いられたメンバーもいる。

みんなで、その体験や得た知識を共有しながら、これから入ってくる情報を処理していこう。

知は力なり。

P.S.

すでに入手した情報の取り扱いについて。

我々は、患者さんやその家族に情報を提供(説明、指導)する側でもある。

個人情報の保護と守秘義務は当然であるが、情報を発信する側のマナーというか前提というか…。

情報に関する私の考え。

情報は3種類、だと思う。

1.誰でも知ってるオープンになってる情報。

2.知る人ぞ知る、扱いがデリケートな情報。

3.墓場まで持っていかないといけない情報。


そして…、

自分にとって不都合な情報の9割は、自分自身の口から発せられている、という。

私の、情報(インテリジェンス)に関する考え。


監督 池谷 龍一

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